昭和おふみ回想ぶろぐ

昭和の思い出を忘れないうちに

三種の神器 テレビ

昭和の三種の神器という言葉があるけど、ものごころついた時には我が家にテレビはあった。

幼稚園の時、NHKの「ひょっこりひょうたん島」を見ていた記憶があるから。

長めの脚のついた小さな白黒テレビで、ほぼほぼNHKばかり。

当時テレビは、大事なモノとして扱われていたため、子供が勝手につけたりできなかった。

夕方になると「ひょっこりひょうたん島」の時間だから、見ていいよ~と言われて見たって感じ。

なので食事をしながらテレビを見るなんてもってぬほか。

食べる前にはテレビを消す、食べ終わったらテレビをつける・・人間よりテレビのが上なのか??今思えばテレビ様だったなぁ。

 

私が幼稚園児の頃、夕方にテレビを見ていると、きまって裏の家に住んでいるコが見に来た。

10才近く年上の男のコで、その頃はテレビのない家庭も多く、そんなことも珍しくない時代だった。

しかしながら幼稚園児とこのお兄ちゃんでは会話も弾まず、楽しみなはずの「ひょっこりひょうたん島」もだんだんと窮屈な時間となった。

おしゃべり好きで陽気な男のコだったらまた違う展開になったと思うが、ともに親しみやすいキャラではなかったため、残念な空気になったようだ。

これは裏の家がテレビを購入するまでの期間だったと思う。

そもそも、あんな人形劇を10も年上の男のコが楽しみにするということ自体、「ん?」と思われるかもしれないけど、娯楽がなかった時代だから、そもそも「テレビを見ている」ということが、大事だったのかもしれない。

 

この頃のテレビは、とにかく回していた。

チャンネルを変えるのもガチャガチャとダイヤルを回し、音を大きくするのもツマミを回し、つけたり消したりも回していた。

あと、チューナーみたいなものも回した。

ラジオの電波を拾うように、テレビもそれを回してぴったり画面に合うようにセットしたりした。常に砂嵐がおきたり映像が動くので、ちょうどいいところで合わせることが必要だった。それはもちろん大人しかできなかったが、小学生になるといつの間にか自分でガチャガチャするようになっていった。

 

 

幼稚園児の心理

幼稚園では、たまに母親参観があった。

その日は教室から離れて、集会場みたなところでみんなでお弁当を食べるのだ。

 

食べる前には必ず、(おべんと~おべんと~~たのしいな~~♪)的な歌を歌った。

「お弁当の歌」に合わせて、リズムをとって手をたたき、座ったままでの振り付けは楽しみでもあった。

もちろん私も完璧に「お弁当の歌」をマスターしていた。

 

しかし、母親参観の時だけは違った。

母が来ている・・というだけで、私はいつもの自分を出せなくなった。

 

みんなが両手をあげて大きくたたく時、私は机の下で小さく指先だけたたいた。

みんながげんこつを交差させる時、私はひざの上で手首を動かした。

みんなが大きな口をあけて歌っている時、私は口をぎゅっと閉じて歌が終わるのを下を向いて待った。

 

みんなは自分の親の前で、一生懸命頑張っていいところを見せようとしているのに、私ときたら、みんなと一緒に楽しく歌っている姿を、自分の母に見られたくないという、よくわからない感情があった。

 

その時のことは、いまでも鮮明に覚えている。

 

「あんただけなんで歌わないのっ!!みんな歌っているのにっ!!」

怒ったように母は言った。

 

「いつもちゃんとやっているもん!!」心の中で反論することしかできなかった。

 

私はそんな子供だったのである。

 

自分の幼稚園での生活を、母に見られるのがなんとも恥ずかしく、いつもどおりやれなかった。おかしな子供だった。

4歳や5歳くらいでも、いろんなことを思うものなのだ。

 

みんなが当たり前にやっていることが、我が子だけやれないのを見る母は、どんなにかもどかしく恥ずかしかったことだろう。

 

大人になってから当時のことを思うと、子供の時の自分よりも親の気持ちのほうに重きがいく。

幼稚園のお昼

昭和30年後半に幼稚園通っていたが、思い出はあまり良いものがない。

早生まれの私は、何をするのもうまくできなかった。

幼稚園児の1年の違いは、相当な差があったのかもしれないが、原因は自分自身にあったのだと思う。

 

自分で何かする・・ということができなかった。

誰かに何かを言ってもらって、初めて私は動けた。

それは常に他人が声をかけてくれるのを待つということだ。

 

冬になるとみんな持ってきたお弁当箱をだるまストーブの周りに置いた。

温めるというよりは、ごはんが冷たくならないように、アルミのお弁当箱を置くのだ。

お昼になると食べ終わった子は次々に教室から飛び出して遊び回った。

私のほかにも遅い子が数人いて、いつも決まった顔で食べていた。

 

おまけに食べ終わる終盤に私はしょっちゅうお漏らしをしていた。

頭の中で何度も「せんせい・・せんせい・・」と繰り返すのだが、のどの奥から言葉が出せないのだ。

そうこうしているうちに、涙とともに足元にも水がしたたり落ちてしまう。

 

毎回幼稚園の着替えのズボンをはかされ、自分の汚しもの一式ビニール袋にいれられ、それをぶらさげて帰っていった。

 

毎日思っていた。

お弁当の前にお手洗いにいっておけばよかった。

食べている途中で、お手洗いにたてばよかった。

先生に言えばよかった。

毎日そう思っているのに、なぜか私はできなかった。

 

お手洗いにいこう~と誘ってくれる友達がいたら、お漏らししなかったのかな・・と今思ったりもするけど、そもそも友達になりたいと思われないような子だったのだと思う。

 

井戸ポンプ

私の記憶は、たぶん3才前後から始まっている。

父が支店を任されて(銀行とかじゃなく、ちっぽけなお店です)引っ越してきた風景だ。

 

原っぱの隣にポツンとたつ平屋が、店舗兼自宅だった。

頭上には、○○支店と書かれた大きな看板があり、木枠のついた全面ガラス戸でカギは棒のついた、グルグル回すやつだった。

 

夕方になるとカーテンを引いて、夜遅くなると雨戸をしめて寝ていたと思う。

 

ガラス戸の内側には、自転車が数台おける土間があった。

靴を脱いで釘で打ち付けた広い板の間にあがれば、ミシミシと音がした。

時々浮いてくる釘に靴下を引っ掛けると、金づちでトントンと打ち付けた。

 

そこが仕事場であり、その先ガラス戸1枚で仕切られた向こうが、私の家の居住スペースだった。

 

8畳ほどの茶の間だった。

そこで食事をし、夜になればちゃぶ台をたたんで布団を敷いて家族4人で並んで寝た。

 

その茶の間の奥には、扉があった。

扉の向こうにある小さな階段を降り廊下を1mほど歩くと、そこはもう裏の住人の玄関の内側だった。私の家と裏の家がつながっている、とても奇妙な造りだった。

 

庭先には手押しの井戸ポンプがあり、まだ冷蔵庫のない時代はポンプの水でスイカを冷やした。とにかく井戸の水は冷たかった。夏になるとその冷たい水で顔を洗い、手を洗うことで涼をとった。結構長い間、井戸を利用していたがいつから使わなくなったのか覚えていない。だんだん飲んじゃいけない方向になってきたんだと思う。

 防空壕

BSで昔の朝ドラを見ていると、戦争中の話がよく出てくる。

空襲警報が鳴ると防空壕に入って、収まるのを待つ。

 

私は母に聞いてみた。

「おばあちゃんの家にも防空壕ってあったの?」

 

「やっぱり庭とかに穴掘るわけ?」

 

もぐらじゃあるまいし、穴掘って人間が入れるわけないんだけど、どうしてもスコップで穴をほっているイメージなんだよね。

 

祖父の家の防空壕は、店の中にあった。

自宅兼店舗の店のほうの床の下に、穴を掘り階段をつくりコンクリートで固めて作ってもらった。

警報がなるたびに、そこへ家族みんなで入った。

 

危ない時は山のほうへ逃げた。

本家が山にあって、そこに向かって走ったらしい。

山は、木が生い茂っていて逃げづらいものの、木が人を隠してくれる。

木を隠すなら森の中・・ってことだ。

 

祖父の家は、神奈川の海に近いところに建っていた。

なので、海に逃げた人も大勢いた。しかし海に隠れるところなく・・・

たくさん人が死んだ。

海のほうが近いのに・・と子供だった母は思ったらしい。

子供の足で山を登るのは、大変なのだ。

だけど、絶対に海に行っちゃだめだ!!と言われた。

 

母は長女でその下に小さい妹と弟がいた。

山の上から見る空襲は、まるで花火のようでものすごくキレイだった。

 

そう私に語った。

 

戦争のさなか、逃げ惑うさなか、

その花火の下で人が死んでいたんだよね・・・

なんか複雑な気持ちになる。

別の意味で、子供でよかったのかもしれないけどね。

 

昨今のウクライナ侵攻以来、防空壕が欲しいと初めて思った。

マンション住まいなので、絶対無理だけど・・・。

せめて町の要所要所にシェルタ-作ってほしいわ。

令和になって、2022年にもなって、こんなことを思っている孫を、天国にいる祖父母はどう思ってるのかしら。「ごめんね」となんだか私が悪いわけでもないのに、謝りたい気分だ。

 

祖父母の家


私の家は商売をしていたので、よく祖父母の家に預けられた。

母の弟である叔父が、オートバイの後ろに私を乗せて迎えに来てくれた。

3才くらいのことなので、私は記憶にないのだが、大きくなって祖父母の家にいくたびに、その話をきかされた。

 

その当時の祖母は、50才くらいだったと思う。

いつも着物に白い割烹着姿で、髪はひっつめてお団子にし、黒いネットのようなものでまとめていたと思う。

 

庭でヨモギをとり、よく草餅を作った。

私は粒のあんこが苦手だったし、子供なので草っぽい匂いと味も好きじゃなかったと思う。でも一緒に草をむしったり、餅にあんこをつめたりするのは楽しかった。

 

冬は大きな火鉢が活躍した。

寝るときは湯たんぽと豆炭あんかを布団の足元に入れてくれた。

昭和30年代は、自分の家でもそんな感じだったと思う。

 

あんかのフタをあけて、火の中から取り出して赤くなった豆炭をセットして、専用の布袋にいれるのを、いつも見ていた。朝になってフタを開けると、灰になった豆炭を取り出すと崩れる時もあった。

 

当時の自分の家にはなかった風呂が、祖母の家にはあった。

お風呂は家の外に作ってあり、下駄をはいてお風呂場に行くのである。

トタン板で囲ってあるが、下は土間で洗い場はスノコの板で作ってあった。

段差がかなりあるので、小さい時はひとりで風呂場に近寄らないように言われていた。

浴槽もかなりの深さがあるので、祖母のひざのうえに立ちながら、ふちにつかまったりしていた。孫をお風呂に入れるのに、相当神経をつかったのではなかろうか。

昔のお風呂は子供にはかなり危険だった。だからこそ大人が目を離すことなくしっかり気をつける、それが当たり前の時代だった。

 

昭和30年代半ばのお風呂

 

 

 

 

祖父の丁稚奉公

祖父母は明治生まれなので、さすがにもうこの世にはいない。

二人とも長生きで80過ぎるまで元気で過ごした。

 

祖父は、12才で小学校を卒業すると東京へ丁稚奉公に出て行った。まだ子供の年齢なので、つらくて3日で逃げ出して帰ってきてしまった。とはいえ家にいることも許されず別の奉公先へ・・。それもうまくいかず、また別のとこへを繰り返して、ようやく1か所に落ち着いたそうだ。

その店で21才まで勤めれば五百円もらえるということで、それは良い話だったらしい。

今ならいくらなのか??

 

丁稚奉公なので給料はなく技術を教わり食べさせてもらうだけ。それでも一か月に2日だけ定休日があり、その都度こづかいで十五銭ほどくれたので、よい奉公先だったのかもしれない。活動写真(のちの映画)を見にくことが、唯一の楽しみだったらしい。

 

1円玉より下のお金を知らないので、何銭とかがいまいち想像つかないが。

 

祖父は小学校しか出てないので、物を知らない・・という思いがあり、本を読んだりして自分で教養を身に着けてたと聞き、苦労がしのばれた。

 

丁稚奉公から15年後、28才で故郷に戻って独り立ちし自分の店を構えた。

それが昭和8年ごろ。

 

その後祖母と結婚し、私の母をふくめた子供も何人か生まれて、お店も軌道にのるのだけど、戦争のせいで昭和19年には店をしめることになってしまう。

 

戦争の後半になると、武器とかにつかうために金属とか供出しなくちゃならなくて、商売道具を全部国に渡しちゃったため、商売ができなくなってしまったのだ。

 

「お父さんが(祖父)、真面目だからなんでも言われるとおり、全部供出しちゃうから・・。みんな隠したりしているのに」・・と、のちに母の妹たちが昔のことを語っているのを聞いた。

 

私の祖父は、戦争中30代半ばから後半だったので、戦争に行ってないのが不思議だったのだが、身長がとても低かったので徴兵検査で落ちたらしいんだよね。

そういうのもあって、お国のために~とすべて供出しちゃったんじゃないかな。

後ろめたさみたいなものもあったのかもしれない。

 

戦争が終わって店を再建するんだけど、相当苦労したみたい。

それでも祖父が存命の頃までが、一番商売がよかった時代かもしれない。

二代目、三代目とつないできたけど、このご時勢だからもう瀕死の状態で別の意味で大変そう。

 

戦争って祖父母や母から聞く、遠い昔話だったはず。

それが令和のこの時代に、こんなにも身近に感じることになるなんて・・・。

 

おじいちゃん、おばあちゃんたちは、どう思うんだろうな。