昭和おふみ回想ぶろぐ

昭和の思い出を忘れないうちに

祖父の丁稚奉公

祖父母は明治生まれなので、さすがにもうこの世にはいない。

二人とも長生きで80過ぎるまで元気で過ごした。

 

祖父は、12才で小学校を卒業すると東京へ丁稚奉公に出て行った。まだ子供の年齢なので、つらくて3日で逃げ出して帰ってきてしまった。とはいえ家にいることも許されず別の奉公先へ・・。それもうまくいかず、また別のとこへを繰り返して、ようやく1か所に落ち着いたそうだ。

その店で21才まで勤めれば五百円もらえるということで、それは良い話だったらしい。

今ならいくらなのか??

 

丁稚奉公なので給料はなく技術を教わり食べさせてもらうだけ。それでも一か月に2日だけ定休日があり、その都度こづかいで十五銭ほどくれたので、よい奉公先だったのかもしれない。活動写真(のちの映画)を見にくことが、唯一の楽しみだったらしい。

 

1円玉より下のお金を知らないので、何銭とかがいまいち想像つかないが。

 

祖父は小学校しか出てないので、物を知らない・・という思いがあり、本を読んだりして自分で教養を身に着けてたと聞き、苦労がしのばれた。

 

丁稚奉公から15年後、28才で故郷に戻って独り立ちし自分の店を構えた。

それが昭和8年ごろ。

 

その後祖母と結婚し、私の母をふくめた子供も何人か生まれて、お店も軌道にのるのだけど、戦争のせいで昭和19年には店をしめることになってしまう。

 

戦争の後半になると、武器とかにつかうために金属とか供出しなくちゃならなくて、商売道具を全部国に渡しちゃったため、商売ができなくなってしまったのだ。

 

「お父さんが(祖父)、真面目だからなんでも言われるとおり、全部供出しちゃうから・・。みんな隠したりしているのに」・・と、のちに母の妹たちが昔のことを語っているのを聞いた。

 

私の祖父は、戦争中30代半ばから後半だったので、戦争に行ってないのが不思議だったのだが、身長がとても低かったので徴兵検査で落ちたらしいんだよね。

そういうのもあって、お国のために~とすべて供出しちゃったんじゃないかな。

後ろめたさみたいなものもあったのかもしれない。

 

戦争が終わって店を再建するんだけど、相当苦労したみたい。

それでも祖父が存命の頃までが、一番商売がよかった時代かもしれない。

二代目、三代目とつないできたけど、このご時勢だからもう瀕死の状態で別の意味で大変そう。

 

戦争って祖父母や母から聞く、遠い昔話だったはず。

それが令和のこの時代に、こんなにも身近に感じることになるなんて・・・。

 

おじいちゃん、おばあちゃんたちは、どう思うんだろうな。